2005.05.05 Thursday
望郷のグインサーガ
書こうか書くまいか、ずっと迷っていたんですが、ともかく記念すべき巻が先月発刊になったようなので。
グインサーガ 100 豹頭王の試練
100巻達成、これだけは心からおめでとうございます。
感慨深いです。
先に書いておきますね。
1.hisuiは子供のころから熱烈なグイン読者であった。
2.現在は読んでいない。ゆえに100巻も未読。
3.(今さらですが)hisuiはやおい好き腐女子。
これをご了承の上で読んでください。お願いします。特に「グインサーガ」や「栗本薫」で検索してきたファンの方。
なるべく気をつけますが、苦いエントリーになるのは、書く前から自分で知れてるからです。
これ、続きがとても長くなると思います。100巻にはなりませんが。
グインサーガ 100 豹頭王の試練100巻達成、これだけは心からおめでとうございます。
感慨深いです。
先に書いておきますね。
1.hisuiは子供のころから熱烈なグイン読者であった。
2.現在は読んでいない。ゆえに100巻も未読。
3.(今さらですが)hisuiはやおい好き腐女子。
これをご了承の上で読んでください。お願いします。特に「グインサーガ」や「栗本薫」で検索してきたファンの方。
なるべく気をつけますが、苦いエントリーになるのは、書く前から自分で知れてるからです。
これ、続きがとても長くなると思います。100巻にはなりませんが。
さて。まっさきに言うけど、
100巻のタイトルは『豹頭王の花嫁』じゃなかったんですかー?
えっ、終わってないの?あっそ。やっぱりね(笑)
途中挫折したりしながら、周期的にまた1巻からの挑戦を何回か繰り返したりしつつ、70巻くらいまではなんとか読んだ記憶があるのですが。
これからもまた、挑戦はするかもしれません。いつか。
今は「読まない期」に入っています。今までになく長く。
豹頭の仮面―グイン・サーガ(1)
hisuiが初めてグインサーガを読んだのは、小学生のころ。
年末に買ったSFマガジン増刊号に載っていた、外伝『氷雪の女王』を一気に読み、そのまま年明けにお年玉を握りしめて書店に走り、当時出ていた本編と、外伝を全部買ってきた。
今でも『辺境編』1-5巻、『陰謀編』6-10巻、このころ出た外伝などは本当に好きだ。
グインやリンダやレムスとともに、ノスフェラスの荒野を。マリウスやイシュトヴァーンとともに伝説の北の国で宝探しを。魔道と優雅な文化が共存するクリスタルの城下を、トーラスの金蠍宮を、陽気なヴァラキアの港町を。私もあの世界を一緒に旅したんだと思う。
それくらい子供のころの私にはリアルなファンタジーだった。
……だった。過去形(泣)
実はこのエントリー、昨日長々とひたすら今の自分のグインサーガに対する心境をただ書いてみたんですが。
読み返したら「グインサーガはやおい方向に走って迷走した」「栗本薫はやおいで失敗する」ということばかりを訴えていて、いかにグインサーガがやおい的に歪められたか、栗本薫の今の文章がどれだけヒドイか、作者はもうボケてるんじゃないか、ていうかどうでもいいから本物のクリスタル公を返せあたしの豹頭王を返せもう三十巻あたりから道場の高弟たちに書き直してもらえうわあああと、それこそ本当にここ十年ばかりの積もり積もった怨詛をぶちまける勢いで書き付けたシロモノになってしまったんで、ちょっと自分で「おい、落ち着け」と思ってしまった。
なので、ちょっと落ち着いて全面的に書き直してみます(笑)
私はもう、今はグインサーガを読んでないのです。
私の友人知人にも、グインサーガファンは多いのですが、「元ファン」と、「現在もファン」にきっぱり別れてて、これが私の周りに限っていうと、面白いことに「元ファン」つまり、今はもう読んでない人は全員、少なからず「やおらー」な要素を持っている人なんです。
今も変わらず熱心に読んでいる友達は、非オタクの女友達か、もしくは男性ファンなのですね。
世間ではどうなんでしょ。
栗本薫という人は面白い人で、彼女はたしかにJUNEという分野で、24年組マンガ家たちに次ぐ功労者だと思うし、初期のJUNE作品(『翼あるもの』とか)は、やおい文化溢れる今読んでも、他にはないほど優れたやおい小説だと思う。
JUNE誌上で彼女がやっていた『小説道場』は、いくらアンチ栗本派が今さら「たいしたことなかったよ」と言ってみたって、多くの才能あるやおい作家を世に出したことは事実なんだから否定しようがない。私は彼女の初期のJUNE作品が好きだったし、多くのものを与えてもらったと思う。
にも関わらず、何故か今の栗本薫は必ず「やおい」で失敗してると思っちゃうんだよね。
ある時期から栗本薫の小説は、「やおい」(栗本語では「ヤオイ」らしい)色が濃厚になればなるほど、本来の魅力は薄れ、物語としての構成や文章は崩壊していくというパターンができてしまって、元々熱心なファンから反発を受けだすということを繰り返してると思うし、そう思っている人は多いと思うんです。
最初私は、「やおい」的変化へ反発するファンってのは、健全なファンであろうと思っていたんですが、ふと周りを見渡してみたら、自分を始め「もう栗本薫はいいや」ってなってしまった人間は、大半が「やおらー」だったという怪。
私の周りで今も欠かさずグインサーガを読んでいるのが仲のいい連中に三人いて、一人は小学校のときからの長い友人(女性・やおい系同人系マンガ系無縁)、あとの二人が高校時代と、大学時代からの友人(男性・同人系さっぱり無縁の多少マンガ読み)なのですが、三人とも会えば必ず「グイン新刊出たねー。読んだ?」などと話題に出すのね。何故かというと彼らにグインサーガを最初に読ませた張本人が私だから(笑)
「もう読んでない」というと、本当に不思議そうに「え、なんで?」と聞かれる。
私以外のやおい好き友人の周りも大半がそうで、とあるやおらーの知り合いなんか、お父さんが熱心なグインサーガファンになってしまって、自分が読まなくなってからも、お父さんは真面目に読み続けているらしい。そんでやっぱ「なんで読まないの?」って聞かれるとか(笑)
今インターネットの世界では、アンチ栗本薫がとても目につくと思うんだけど、私が目にする限り、反発してるのはたいてい、やおらー(程度の差はあっても)のような気がするのですよ(笑)
意外と「やおい」なんて言葉すら知らない普通のファンは、今も変わりなく淡々と読んでいるような。
何故栗本薫が「ヤオイ」化すればするほど、「やおい」好きには耐えられなくなるんでしょか。
まあ、ディープなやおらーというのは、もともと大変にワガママな生き物で、「腐女子受けを狙った」のが見え見えなものには、かえって強い嫌悪を示すもんです。WJマンガとか、アニメなどに対してもそういう傾向はあると思います。
今どきの明るいやおい文化に反発を覚えるJUNEな世代は一層そうだと思う。つまり「そんなもんで踊らされるほど、やおらーは甘くないわい!」と言いたい自称ツワモノやおらーたちね。私もそうなんだけど(笑)
何故かというと、やおい好きじゃない人間が狙ったつもりの「やおい的展開」は、本来やおらーが求める一番重要なポイントを外してるからだと思うんです。やおらーじゃない人には決してJUNE少女の求めるものは理解できない。彼らには、やおい=「ホモ的展開」としか解読できないから。
だから不自然にやおい的展開を盛り込まれてもやおらーは醒めるだけ。そういうのはありがちなんだけど。
しかし、栗本薫の場合は、決して本人が「やおい少女受けを狙って」好きでもないのにやおいにしているわけじゃないだろうから厄介なんじゃー!
栗本薫は、本人がいかに「自分はもうヤオイを卒業した」と言い張っても、本質が相変わらず飢えたJUNE少女のままだと思う。しかもそれが歳をとったせいなのか本人の自覚がないせいなのか、昔より一層飢餓状態が酷くなっているような気がするのです。
本来器用で実際あらゆる「物語」好きな方だと思うので、手広くいろいろなジャンルでそれなりのものは書けた。だからあれだけ各分野で売れっ子になったんだろうし、そのあたりは本当に普通のJUNE少女とはケタ違いの才能だったと思うのですが、どこかで何か間違って「ジョニー」を置いてきぼりにしてるんだと思う。
なので彼女の書くものは、ある時期から傷がついたレコードのごとく、お決まりの展開にはまりこむようになって、長く書けば書くだけ、主人公がジョニー化するようになってしまった。だけど今西良に向かい合っていたときのような真摯さも切迫感もないままにそれをやるので、せっかく築いた物語は崩壊するし、どんなキャラも「えせジョニー」になっちゃう。
飢えた子供の本当の姿をすっ飛ばして、キレイで可哀想で周囲にあがめ奉られてすべての人を虜にする魔性の受けちゃんになっちゃうんだな(泣)
同じテーマにこだわり続けるのは決して悪くないと思う。だけどそれなら、もっと自覚があるべきだ。
それを見事にやってのけてるのが萩尾望都で、栗本薫は真逆の道にはまってるよーな気がする。
何が原因なのかは知らない。編集者や読者などの周りが悪かったのかも知れないし、本人がそういう器だったのかも知れないし。
間違いなくわかるのは、彼女が今書いているものは、誰にも(作者本人にも)推敲すらされてないだろーってことだけだ。
それでも、『朝日のあたる家』の最初のあたり、落ちぶれたジョニーを書けてるのを読んで、「おお?」と目を瞠ったんだけど……。あの話も途中で結局自分の中のジョニーから目を逸らして終わってる感じがしちゃったな。
ええと、……「栗本薫のやおい」の話じゃなくて、グインサーガの話をしたいんですが……ダメだね(笑)
どうしてもそっちに話が行っちゃうなあ。
伊集院大介や、魔界水滸伝は、とっくの昔にあきらめた。
だけど、グインサーガだけは。
グインだけは大丈夫じゃないかと思ってた。
あの話だけは、栗本薫が昔よく言っていたように、どっかから何か電波でも受けて自動書記してるんじゃないかとすら思ってたんだよね(笑)
質実剛健で無骨で心優しいあの豹頭の戦士が主人公である限り、ちょっと物語がふらついても、グインさえ出てくれば(彼は主人公だけど何巻も登場しないことがあるのです)話はひきしまる。
そう信じて読んでいました。
その想いも、もう私の中では危ういです。
この間(と言っても一年前ほど前)久々に外伝の『宝島』を買ってみたんですが、上巻で投げてしまった。
平仮名ばかりの同じような言い回しだけで延々と何十ページも、いかにイシュトヴァーンが可愛くて可憐で魅力的で男殺しか、そんなこと書かなくてもいいッ!そんな紅の傭兵は知りません(笑)
つーかこの話、『幽霊船』や『ヴァラキアの少年』の下手な同人パロみたいじゃないかー。
これは本当にあの『豹頭の仮面』やら、『七人の魔道師』の作者が書いた話なのかなあー……もう誰か影武者が書いてるんじゃねーか。そんなことまで考えちゃったぞ。
ま、これだけは言いたいんですけど、やっぱりグインサーガはせめて三分の一程度の量にきちんと推敲して、100巻で完結するように書くべきだったんだよ。
揚げ足取るのは不本意ですが、昔中島梓さんの『小説道場』という本にね、たしか「私は50枚の規定枚数なら、何も考えなくても50枚の最後の一行で話を終えることができる」てなこと書いてありましたよ。「プロの物書きならば、仲間内の誉め言葉だけで甘やかされる同人誌で遊んでいてはいけない」てなことも。
私の記憶違いでしょうか。
今の栗本薫さんには『小説道場』を全巻熟読してもらいたい。きっと役に立つと思うの(笑)
……ああ。結局恨み言になっちゃったな(笑)
小学生のころ、「100巻完結するころは、私もオトナなんだなあ。そしたら、記念に1巻から全部揃えてもう1セット買って、自分の子供にあげよう」と考えていました。
予定とずいぶん違った人生になってしまって子供もいませんが、『豹頭王の花嫁』を手にすることもできなかった。残念です。
それでも、いまだに楽しみに読んでいる読者は多いんですよね。
私がやおらーだったからいけないのか、やおい的要素さえ抑えてあればグインサーガは今も私の心を動かしてくれたのか。もうわからないけれど。
あの日のノスフェラスに帰りたい(笑)
100巻のタイトルは『豹頭王の花嫁』じゃなかったんですかー?
えっ、終わってないの?あっそ。やっぱりね(笑)
途中挫折したりしながら、周期的にまた1巻からの挑戦を何回か繰り返したりしつつ、70巻くらいまではなんとか読んだ記憶があるのですが。
これからもまた、挑戦はするかもしれません。いつか。
今は「読まない期」に入っています。今までになく長く。
豹頭の仮面―グイン・サーガ(1)中原において最も歴史ある美しい王国、パロを突然襲った悲劇。もう、なんか今書いていても涙が出るほど懐かしく、たまらなく好きな和製ヒロイック・ファンタジーなんですが……。
新興の国モンゴールに侵略を受け、パロの真珠と謳われた「聖双生児」、王子レムスと王女リンダは、辺境の荒野ノスフェラスに隣するルードの森に逃げ落ちる。
死霊や未知の生物が跋扈する怪異の森で双生児を救ったのは、記憶を失った豹頭の戦士、グインだった。
(Amazonに載ってなかったので勝手にあらすじ)
hisuiが初めてグインサーガを読んだのは、小学生のころ。
年末に買ったSFマガジン増刊号に載っていた、外伝『氷雪の女王』を一気に読み、そのまま年明けにお年玉を握りしめて書店に走り、当時出ていた本編と、外伝を全部買ってきた。
今でも『辺境編』1-5巻、『陰謀編』6-10巻、このころ出た外伝などは本当に好きだ。
グインやリンダやレムスとともに、ノスフェラスの荒野を。マリウスやイシュトヴァーンとともに伝説の北の国で宝探しを。魔道と優雅な文化が共存するクリスタルの城下を、トーラスの金蠍宮を、陽気なヴァラキアの港町を。私もあの世界を一緒に旅したんだと思う。
それくらい子供のころの私にはリアルなファンタジーだった。
……だった。過去形(泣)
実はこのエントリー、昨日長々とひたすら今の自分のグインサーガに対する心境をただ書いてみたんですが。
読み返したら「グインサーガはやおい方向に走って迷走した」「栗本薫はやおいで失敗する」ということばかりを訴えていて、いかにグインサーガがやおい的に歪められたか、栗本薫の今の文章がどれだけヒドイか、作者はもうボケてるんじゃないか、ていうかどうでもいいから本物のクリスタル公を返せあたしの豹頭王を返せもう三十巻あたりから道場の高弟たちに書き直してもらえうわあああと、それこそ本当にここ十年ばかりの積もり積もった怨詛をぶちまける勢いで書き付けたシロモノになってしまったんで、ちょっと自分で「おい、落ち着け」と思ってしまった。
なので、ちょっと落ち着いて全面的に書き直してみます(笑)
私はもう、今はグインサーガを読んでないのです。
私の友人知人にも、グインサーガファンは多いのですが、「元ファン」と、「現在もファン」にきっぱり別れてて、これが私の周りに限っていうと、面白いことに「元ファン」つまり、今はもう読んでない人は全員、少なからず「やおらー」な要素を持っている人なんです。
今も変わらず熱心に読んでいる友達は、非オタクの女友達か、もしくは男性ファンなのですね。
世間ではどうなんでしょ。
栗本薫という人は面白い人で、彼女はたしかにJUNEという分野で、24年組マンガ家たちに次ぐ功労者だと思うし、初期のJUNE作品(『翼あるもの』とか)は、やおい文化溢れる今読んでも、他にはないほど優れたやおい小説だと思う。
JUNE誌上で彼女がやっていた『小説道場』は、いくらアンチ栗本派が今さら「たいしたことなかったよ」と言ってみたって、多くの才能あるやおい作家を世に出したことは事実なんだから否定しようがない。私は彼女の初期のJUNE作品が好きだったし、多くのものを与えてもらったと思う。
にも関わらず、何故か今の栗本薫は必ず「やおい」で失敗してると思っちゃうんだよね。
ある時期から栗本薫の小説は、「やおい」(栗本語では「ヤオイ」らしい)色が濃厚になればなるほど、本来の魅力は薄れ、物語としての構成や文章は崩壊していくというパターンができてしまって、元々熱心なファンから反発を受けだすということを繰り返してると思うし、そう思っている人は多いと思うんです。
最初私は、「やおい」的変化へ反発するファンってのは、健全なファンであろうと思っていたんですが、ふと周りを見渡してみたら、自分を始め「もう栗本薫はいいや」ってなってしまった人間は、大半が「やおらー」だったという怪。
私の周りで今も欠かさずグインサーガを読んでいるのが仲のいい連中に三人いて、一人は小学校のときからの長い友人(女性・やおい系同人系マンガ系無縁)、あとの二人が高校時代と、大学時代からの友人(男性・同人系さっぱり無縁の多少マンガ読み)なのですが、三人とも会えば必ず「グイン新刊出たねー。読んだ?」などと話題に出すのね。何故かというと彼らにグインサーガを最初に読ませた張本人が私だから(笑)
「もう読んでない」というと、本当に不思議そうに「え、なんで?」と聞かれる。
私以外のやおい好き友人の周りも大半がそうで、とあるやおらーの知り合いなんか、お父さんが熱心なグインサーガファンになってしまって、自分が読まなくなってからも、お父さんは真面目に読み続けているらしい。そんでやっぱ「なんで読まないの?」って聞かれるとか(笑)
今インターネットの世界では、アンチ栗本薫がとても目につくと思うんだけど、私が目にする限り、反発してるのはたいてい、やおらー(程度の差はあっても)のような気がするのですよ(笑)
意外と「やおい」なんて言葉すら知らない普通のファンは、今も変わりなく淡々と読んでいるような。
何故栗本薫が「ヤオイ」化すればするほど、「やおい」好きには耐えられなくなるんでしょか。
まあ、ディープなやおらーというのは、もともと大変にワガママな生き物で、「腐女子受けを狙った」のが見え見えなものには、かえって強い嫌悪を示すもんです。WJマンガとか、アニメなどに対してもそういう傾向はあると思います。
今どきの明るいやおい文化に反発を覚えるJUNEな世代は一層そうだと思う。つまり「そんなもんで踊らされるほど、やおらーは甘くないわい!」と言いたい自称ツワモノやおらーたちね。私もそうなんだけど(笑)
何故かというと、やおい好きじゃない人間が狙ったつもりの「やおい的展開」は、本来やおらーが求める一番重要なポイントを外してるからだと思うんです。やおらーじゃない人には決してJUNE少女の求めるものは理解できない。彼らには、やおい=「ホモ的展開」としか解読できないから。
だから不自然にやおい的展開を盛り込まれてもやおらーは醒めるだけ。そういうのはありがちなんだけど。
しかし、栗本薫の場合は、決して本人が「やおい少女受けを狙って」好きでもないのにやおいにしているわけじゃないだろうから厄介なんじゃー!
栗本薫は、本人がいかに「自分はもうヤオイを卒業した」と言い張っても、本質が相変わらず飢えたJUNE少女のままだと思う。しかもそれが歳をとったせいなのか本人の自覚がないせいなのか、昔より一層飢餓状態が酷くなっているような気がするのです。
本来器用で実際あらゆる「物語」好きな方だと思うので、手広くいろいろなジャンルでそれなりのものは書けた。だからあれだけ各分野で売れっ子になったんだろうし、そのあたりは本当に普通のJUNE少女とはケタ違いの才能だったと思うのですが、どこかで何か間違って「ジョニー」を置いてきぼりにしてるんだと思う。
なので彼女の書くものは、ある時期から傷がついたレコードのごとく、お決まりの展開にはまりこむようになって、長く書けば書くだけ、主人公がジョニー化するようになってしまった。だけど今西良に向かい合っていたときのような真摯さも切迫感もないままにそれをやるので、せっかく築いた物語は崩壊するし、どんなキャラも「えせジョニー」になっちゃう。
飢えた子供の本当の姿をすっ飛ばして、キレイで可哀想で周囲にあがめ奉られてすべての人を虜にする魔性の受けちゃんになっちゃうんだな(泣)
同じテーマにこだわり続けるのは決して悪くないと思う。だけどそれなら、もっと自覚があるべきだ。
それを見事にやってのけてるのが萩尾望都で、栗本薫は真逆の道にはまってるよーな気がする。
何が原因なのかは知らない。編集者や読者などの周りが悪かったのかも知れないし、本人がそういう器だったのかも知れないし。
間違いなくわかるのは、彼女が今書いているものは、誰にも(作者本人にも)推敲すらされてないだろーってことだけだ。
それでも、『朝日のあたる家』の最初のあたり、落ちぶれたジョニーを書けてるのを読んで、「おお?」と目を瞠ったんだけど……。あの話も途中で結局自分の中のジョニーから目を逸らして終わってる感じがしちゃったな。
ええと、……「栗本薫のやおい」の話じゃなくて、グインサーガの話をしたいんですが……ダメだね(笑)
どうしてもそっちに話が行っちゃうなあ。
伊集院大介や、魔界水滸伝は、とっくの昔にあきらめた。
だけど、グインサーガだけは。
グインだけは大丈夫じゃないかと思ってた。
あの話だけは、栗本薫が昔よく言っていたように、どっかから何か電波でも受けて自動書記してるんじゃないかとすら思ってたんだよね(笑)
質実剛健で無骨で心優しいあの豹頭の戦士が主人公である限り、ちょっと物語がふらついても、グインさえ出てくれば(彼は主人公だけど何巻も登場しないことがあるのです)話はひきしまる。
そう信じて読んでいました。
その想いも、もう私の中では危ういです。
この間(と言っても一年前ほど前)久々に外伝の『宝島』を買ってみたんですが、上巻で投げてしまった。
平仮名ばかりの同じような言い回しだけで延々と何十ページも、いかにイシュトヴァーンが可愛くて可憐で魅力的で男殺しか、そんなこと書かなくてもいいッ!そんな紅の傭兵は知りません(笑)
つーかこの話、『幽霊船』や『ヴァラキアの少年』の下手な同人パロみたいじゃないかー。
これは本当にあの『豹頭の仮面』やら、『七人の魔道師』の作者が書いた話なのかなあー……もう誰か影武者が書いてるんじゃねーか。そんなことまで考えちゃったぞ。
ま、これだけは言いたいんですけど、やっぱりグインサーガはせめて三分の一程度の量にきちんと推敲して、100巻で完結するように書くべきだったんだよ。
揚げ足取るのは不本意ですが、昔中島梓さんの『小説道場』という本にね、たしか「私は50枚の規定枚数なら、何も考えなくても50枚の最後の一行で話を終えることができる」てなこと書いてありましたよ。「プロの物書きならば、仲間内の誉め言葉だけで甘やかされる同人誌で遊んでいてはいけない」てなことも。
私の記憶違いでしょうか。
今の栗本薫さんには『小説道場』を全巻熟読してもらいたい。きっと役に立つと思うの(笑)
……ああ。結局恨み言になっちゃったな(笑)
小学生のころ、「100巻完結するころは、私もオトナなんだなあ。そしたら、記念に1巻から全部揃えてもう1セット買って、自分の子供にあげよう」と考えていました。
予定とずいぶん違った人生になってしまって子供もいませんが、『豹頭王の花嫁』を手にすることもできなかった。残念です。
それでも、いまだに楽しみに読んでいる読者は多いんですよね。
私がやおらーだったからいけないのか、やおい的要素さえ抑えてあればグインサーガは今も私の心を動かしてくれたのか。もうわからないけれど。
あの日のノスフェラスに帰りたい(笑)



